前回の記事で、今の時代は「モノ売り」ではなく「コト売り」だという話をしました。
前回の記事はこちらから読めます↓
「良い家を作れば売れる」時代はもう終わり?
うちのお客さんにも、この「コト売り」を実践していたり、もっと大きな枠組みで、企業の価値観に顧客を巻き込むビジネスを展開している会社がいくつかあります。
そのようなレベルの会社はマーケティングにも詳しいので、自社の概念をしっかりと顧客に伝えるべく努力もしています。ところが…
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顧客がきちんと理解してくれない
自社の新築やリフォームを購入することで、どのような生活を送ることができるのか。
ホームページやパンフレットなどにその想いをしっかりと書き込んでも、いざ顧客と話をすると、こちらが意図したのとは全然違う解釈をする人がちらほらいる。
そんな相談を、時々ですがもらうようになってきました。
書き手はいつ死ぬのか
この相談に対する回答として「それはコピーライティング力の問題だ!」とか「表現方法がまずい!」と言うのは簡単ですし、言われた方も「やっぱりそうか」と反論することもないでしょう。
でも、僕の経験上、誰がどう見たってコピーで解決できるような問題ではないケースもある。例えば、普通に読めば「ああ、こういうことを言いたいんだな」と分かる文章なのに、顧客がとんでもない解釈をしているケースがあります。
しかも厄介なのが「とんでもない解釈をする顧客」はなにも特殊な人ではなく、ごく普通の人たちだと言うこと。つまり、読み手にも落ち度があるとは到底思えない。
だからこそ、伝える側は「自分には的確に伝える実力が足りないのではないか?」と感じてしまうのです。
リリースした瞬間に書き手は死ぬ
この問題には僕もずっと疑問を抱いていましたが、先日、ひょんなことから納得のいく答えが見つかりました。
それは、ロラン・バルトという哲学者が1960年代に書いた「物語の構造分析」という本の中の「作者の死」という小論です。
この小論に書いてあったのが、「作者は作品を支配できず、読者に解釈を任せなければならない」というフレーズ。
つまり、書き手は制作物を世に出した時点で死んでいて、読み手がどう受け取るかをコントロールすることなどできない、とロラン・バルトは言っています。
コテコテの恋愛ソング=回転寿司
この「作者は作品を支配できず、読者に解釈を任せなければならない」というフレーズ。
これを僕がすんなりと受け入れられたのは、自身のある経験がすんなりと当てはまったのが理由です。
僕は高校3年生のころ、短期間ですが回転寿司屋で働いたことがあります。
当時の僕は、陸上のやり投げという種目にすべてを捧げていました。大学でも続けるつもりだったので引退後も練習を続けていたのですが、車の免許も取りたかったのでバイトを始めたのです。
そこでずーっと流れていたのが、絢香の「三日月」という曲。
遠距離恋愛について歌った曲で、作詞した絢香も「遠距離恋愛についての歌詞に共感してほしい」という想いで書いたことでしょう。だからこそ、多くの人はこの曲を聞けば、青春時代の恋愛を思い出すはずです。
でも、僕がこの曲を聞いて思い出すのは、クソ長い回転寿司のレーンばかり(笑)。
僕が働いていたのは、147mと、日本一レーンが長い回転寿司屋でした。とんでもなく長いレーンですからその分だけお客も多く、正直働くのが楽しくなかった僕にとって、このバイトは苦痛でしかなかった。
だから絢香の三日月という曲は、僕にとっては今でも恋愛ソングではなく、回転寿司ソングなんです(笑)。こんな解釈をされるとは、作詞した本人は夢にも思わなかったでしょう。
全員に同じ解釈を求めるのは土台無理
コテコテの恋愛ソングを回転寿司ソングと捉える人間は、きっと日本で僕くらいのはず。
「作者は作品を支配できず、読者に解釈を任せなければならない」という言葉のとおり、絢香がどう言おうが、僕にとって三日月という名曲を聞いて思い浮かぶのは、当時のバイト先である回転寿司屋のレーンばかり。
完全に特殊な例ではありますが、でも、実際にそういう人間がいるのは紛れもない事実です。
だから、あなたの熱い想いを、すべての顧客がきちんと解釈してくれないからと言って、落ち込む必要はありません。
ロラン・バルトの言う通り、ホームページやパンフレットに熱い想いを書き終えた時点で、あなたに出来ることはもうありません。
あとは読み手の解釈に任せるしかないのだから、「8割くらいの人が理解してくれればいいな」くらいに考えておけば良いと僕は思います。
僕も含め、社長という生き物はなんでも実力で解決しようとするもの。
だけど、たまにはこういう考え方も良いのではないでしょうか。